交渉の切り札

結果的に見れば、この制度は功罪相半ばした、と言えるだろう。「功」の部分は、国連の分裂を回避し、消極的な意味にせよ、中立・公正という原則を守り通す安全弁として機能した点だ。「罪」の部分は、東西の大国が関与する紛争について、拒否権の発動による国連機能の停止が常態化した点にある。

だが、拒否権の行使にははっきりとした流れがある。旧ソ連は最多の百二十四回を記録しているが、その多くは六〇年代に集中し、七〇年代は十一回、八〇年代は五回にまで減少した。対する米国は、七〇年に初めて拒否権を使い。九〇年までに八十二回に違した。中国は、過去に二十一回の拒否権を発動したが、うち十六回はワルトハイム事務総長の三選を阻んだ投票である。

九三年五月十一日に、ロシアは、キプロス駐留のPKO経費の支払い問題をめぐる決議案で拒否権を行使したが、これは、ボスニア問題では拠出金を出せないという牽制球と見られ、大きな問題にはならなかった。冷戦後には、重要な問題について拒否権が行使された例はまだない、と言っても過言ではない。

しかし、この点だけをとらえて、冷戦後には拒否権の重みが薄れた、と見るのは早計だろう。P5が、拒否権を交渉の切り札にする例はかえって増えたと見られるためだ。例えば安保理は、九〇年八月二十五日に、在留外国人を人質にとった対イラク制裁の実効を確保するため、目的を限定した「武力行使」を容認する決議を採択した。その文言は「特定の状況が必要とした場合、それに見合った処置をとる」という曖昧な表現になっており、どこにも「武力」の言葉はなかった。