ビルマの「太陽外交」

中国やASEAN諸国の、こと人権問題についての立場は西側諸国よりもビルマにより近い。アジア発展途上国の指導者たち、江沢民、リークアソユー、マハティールらはしばしば欧米諸国からの人権論議に反駁する。曰く、アジア最大の人権問題は国民に十分食べさせることである、むやみに西欧流の人権思想を押しつけるな、経済発展が先、アジアにはアジアの人権思想がある、経済が発展すれば、民主主義体制に向かって市民権・社会権などの人権も徐々に拡大されるものである。

これらの論点をふまえて、先進国や国際機関が援助にあたって、人権状況を考慮に入れて判断するような動きをすれば、アジア各国の政府指導者たちは強く反発する。ビルマ現政権指導者たちが、欧米からの人権批判について、反論するときも、まったく同じ主張を繰り返している。ビルマの現政権に対して、人権・民主化を強調し、制裁をちらつかせて、改善のために強いプレッシャーをかける欧米諸国の路線に比べると、先進国であり、西側諸国の一員である日本政府の対ビルマ政策は一線を劃している。かといって、ASEAN諸国や中国のようにビルマを仲間として扱うほどの積極的関与路線とも色合いを異にする。

日本のこうしたつきあい方はさきで詳述したように「太陽外交」と呼ばれている。韓国の金大中前大統領が北朝鮮(朝鮮民牛王義人民共和国)相手に標榜した柔軟路線にも用いられた表現である。かたくなな男がしっかりと身にまとっている外套を脱がすためには、強い北風を吹きつけるよりも、暖かい太陽の光をそそいだ方が得策であるとイソップの寓話にあるとおり、頑固な軍事政権をこれ以上国際社会のなかで孤立させずに、友情ある説得を通じて軟化をうながし、民主化へ向かわせようというものである。

ECUを構成通貨単位に分解する

ECUの弱点として、しばしば「最後の貸し手」としての中央銀行の不在が指摘される。しかし現在のECUの現実的運営構造からみて中央銀行の不在は何らの支障もえなかった。特に私的ECU市場の中心は銀行間市場であり、銀行が各種通貨を別々に借り入れてECUを合成し、これをいくらでも作り出すことができる。

当初ベルギー、ルクセンブルク、フランスの銀行でつくるECU相圧決済勘定MESがECU取引の核をなしていたが、一九八五年に国際決済銀行BISが、より拡大された規模でのMESに対する決済機関たることを承認した(一九八六年五月調印)。EC機関でないBISが決済機閔となったということ自体、ECUの国際性、成長性を示すものである。統合ECが発展を遂げている限り、BISは「最後の貸し手」として機能する必要はなく、万が一の場へ目には、ECUを構成通貨単位に分解すればよいという最後の歯止めがここでも有効な役割を果たす。

一九九二年二月七日、オランダのマーストリヒトで、ヨーロッパ共同体ECを、ヨーロッパ連合EUに組織替えする合意がなされた。単一市場を作り、より高度な政治統合に進むためである。そのために新しいEU条約が締結された。この条約によって、EU議会の権限が増大し、加盟各国問の協力がいっそう緊密になった。さらに外交政策でのいっそうの協力と単一通貨の導入が決定された。

単一通貨導入の決定自体は、これまでのEMUの歴史の流れから見て別に唐突なことではない。来るべきものが来たという感じである。むしろ驚かしたのは、単一通貨制度に参加する国に対してつけた厳しい参加条件である。その条件を要約すると以下のようになる。

・参加国は、過度な政府支出を避けなければならない。その基準は、年問赤字がGDPの三パーセント、政府負債額がGDPの六〇八パーセント以下でなくてはならない。
・前年比のインフレ率が、参加国の中で最低の三力国平均を一パーセント以上超えないこと。
・その国の通貨変動が、少なくとも一年間、EMSの定めた正常な変動領域にとどまっていること。
・長期利子率が、最もインフレ率の低い三国の平均をニパーセント以上超えてはならない。

交渉の切り札

結果的に見れば、この制度は功罪相半ばした、と言えるだろう。「功」の部分は、国連の分裂を回避し、消極的な意味にせよ、中立・公正という原則を守り通す安全弁として機能した点だ。「罪」の部分は、東西の大国が関与する紛争について、拒否権の発動による国連機能の停止が常態化した点にある。

だが、拒否権の行使にははっきりとした流れがある。旧ソ連は最多の百二十四回を記録しているが、その多くは六〇年代に集中し、七〇年代は十一回、八〇年代は五回にまで減少した。対する米国は、七〇年に初めて拒否権を使い。九〇年までに八十二回に違した。中国は、過去に二十一回の拒否権を発動したが、うち十六回はワルトハイム事務総長の三選を阻んだ投票である。

九三年五月十一日に、ロシアは、キプロス駐留のPKO経費の支払い問題をめぐる決議案で拒否権を行使したが、これは、ボスニア問題では拠出金を出せないという牽制球と見られ、大きな問題にはならなかった。冷戦後には、重要な問題について拒否権が行使された例はまだない、と言っても過言ではない。

しかし、この点だけをとらえて、冷戦後には拒否権の重みが薄れた、と見るのは早計だろう。P5が、拒否権を交渉の切り札にする例はかえって増えたと見られるためだ。例えば安保理は、九〇年八月二十五日に、在留外国人を人質にとった対イラク制裁の実効を確保するため、目的を限定した「武力行使」を容認する決議を採択した。その文言は「特定の状況が必要とした場合、それに見合った処置をとる」という曖昧な表現になっており、どこにも「武力」の言葉はなかった。

複合民族国家の抱える問題

新経済政策の立案・施行にあたったのがマレー人の官僚テクノクラートであり、開発行政に最高のプライオリティーがおかれた。経済計画局がその中心であり、欧米で博士号を取得したマレー人エリートがその任にあたった。イギリス植民地時代の伝統を引き継ぎ、高級官僚は厳しい選抜試験にパスした少数のマレー系エリートに限られ、彼らはマレー人の経済的・社会的地位の向上を目指して政策の立案と施行に権力を行使した。この官僚の力を背後に1969年の第二次マレーシア計画以来、この国も経済への国家介入度を強めた。

1969年に国営企業公社、PERNASが設立され、これが潤沢な政府資金をもって既存大企業の株式を買収し、外資系企業の合弁相手先ともなった。国営企業公社に加えて州経済開発公社、SEDCが全州に設置され、企業の合弁・新設の主役を演じた。マレー人企業家の育成をめざす都市開発庁、UDAもまた事業を展開した。さらに1981年には重化学工業化の遂行を求めて重工業公社、HICOMが設立された。政府系列企業は600社を超え、製造業の重要な部分を掌握した。

こうした政府系企業系列の創設と運営は、マレー人の工業企業家の育成と参画を促し、もっとこの国の土着人種の経済的ステイタスの向上を図ろうという政府の意図を反映している。しかしマレーシアはその一方で、華僑・華人を中心とした既存の工業企業や、これと結びつく外資系企業にはむしろ自由な経済活動を許容し、特に輸出関連産業には競争的市場を提供するという態度を崩すことはなかった。1980年代に入って以降のマレーシアにおける電気・電子機械、輸送機械、繊維などの生産と輸出の伸びは目覚しい。

複合民族国家の抱える厄介な経済課題に対処すべく強い官主導型開発戦略を採用しながら、なお民間活力の発揚を促進すべく競争的市場の創出と外資の導入に積極的であったマレーシアもまた、東南アジアにおける権威主義開発体制国家の一角を占めるのである。

一歩踏み込んだ会計検査院

他の役所に遠慮していると批判されがちな会計検査院も重大な疑問を投げかけた。1996年2月に大蔵省印刷局から刊行された「会計検査のあらまし、平成6年度決算」のなかで検査院は建設省と水資源公団を名指しにして6つのダムと河口堰の建設計画を批判した。

徳島県木頭村の細川内ダムと矢田ダム、基本計画策定後24年を経過して見通しが全く立っていない。愛知県の矢作川河口堰、25年経過しても本体工事の着工の見通しが全く立っていない。群馬県の八ツ場ダムと思川開発事業、着手後29年と27年が経過しているのに、ダム本体工事に着工しておらず、今後もさらに長期間を要する。そして青森県小川原湖総合開発事業、事業計画が周辺事業の進展状況と乖離しているもの。

報告は、小川原湖については「急いで実施する必要はない」と言い切り、八ツ場ダムと思川については「洪水被害の軽減が今後も長期間にわたって期待できないほか、事業費の増加などから原水単価が高騰する」と指摘し、細川内ダムについては「住民の意見を十分考慮し、事業のあり方などについて総合的な調整を図るべきだ」と述べている。

会計検査院の指摘は遠慮がちで、いずれも地元の市民や専門家たちが昔からいってきたことである。だが、工事の細かな設計ミスなどの指摘をすることが多かった同院が、全体の計画自体を批判したことは珍しく、逆に言えばそれだけ計画が不当だということだろう。しかし、この指摘も全国的に見れば氷山の一角にすぎない。

長良川河口堰をめぐり、釣り師で作家の天野礼子を中心とする反対運動などで、ダムに関する不条理は過去には考えられなかったほど知られるようになった。しかし建設省は過大な水需要予測を基に道路と同じ方式の5ヵ年計画を繰り返し作っては、ダムをしゃにむに造り続けている。ここにも公共事業複合体が、とうの昔から出来上がっているからだ。建設省とその出先機関、ゼネコンを頂点とする土建業者のピラミッド、暗躍する国会議員や地方議員たち。米国ではかつて、同じような利権集団をハイドローマフィアといった。本国ではだいぶ力を矯められているようだが、ここ日本では健在である。

「悪魔のサイクル」から抜け出せ

アメリカでの「地域再投資法」に関する事例はすでに紹介したが、それ以外にも欧米では、環境団体による企業コントロールや社会的責任投資(SRI)と呼ばれる市民運動などが盛んにおこなわれている。社会的責任投資とは、市民的ルールから大きく逸脱した企業は、それがたとえ高い利潤を上げていても株式投資などの対象としない、あるいは逆に株主となって経営方針の変更を迫るといった市民運動である。

つけ加えていえば、日本の場合には、とくに労働組合がこうした運動にどの程度積極的に参加できるかが重要な意味を持つことになろう。なぜなら、日本の労働組合は日本的企業社会の重要な「構成要素」としてこれを支えてきたのであり、したがって、そこでの意識変革なしに新たな市場経済のルールづくりをおこなうことぱきわめて困難になるからである。

仮にこうした諸困難を乗り越えたとしても、なおも次のような反論が提起されるかもしれない。「そんなことをすれば、日本の国際競争力が低下してしまう。それこそ亡国の道だ」というものである。

こうした議論は、これまでにも繰り返し、それこそ耳にタコができるほど聞かされてきたものである。たしかに、この国際競争力至上主義こそ、日本の高度成長を実現し、日本を世界一の「お金持ち国」に仕立て上げた日本国民のエネルギーを引き出す「魔法の杖」であった。しかし、これはまた同時に、「悪魔のサイクル」となって、日本の「豊かさ」と「貧困」のパラドックスをつくりあげてきたものでもある。

日本が国際競争力の強化に成功して、相対的に高率の「経済成長」を実現すると、国際的不均衡が生み出され、やがてそれは円高や国内市場開放の「外圧」となってはね返ってくる。そこで、日本企業はいっそうの競争力強化へと突き進むが、これがさらなる「外圧」を生んで、さらにいっそうの競争力強化が必要になる。「豊かな国」であるはずの日本でこそ労働者の過労死が問題になり、バブルの発生によってマイホームが買えなくなり、食糧自給率の低下によって食糧危機が懸念されるという奇妙な構図は、このサイクルがっくり出したものである。

投資対象の選択を誤まる

鉄鋼業界のなかでも、大手の総合鉄鋼メーカーは転炉、連続鋳造、コンピューター制御といった技術の進歩に乗り遅れたうらみがある。一九六〇年代から七〇年代にかけて、アメリカの鉄鋼業界は日本などにくらべて研究開発や生産設備への投資を惜しんだわけではない。ただ問題は、投資対象の選択を誤ったことだ。

同じ鉄鋼業界でもブッヤパラル社のミニーミルのように比較的規模の小さい専業メーカーは、技術的に進んでいた。電気炉や連続鋳造法などを積極的に取り入れ、新しい経守アクユックを開拓し、協調的な労使関係を築いて労働コストを下げ(賃金そのものは一時間あたり二・五ドルと高いほうだったが、制限的な職場慣行がなかったおかげで労働コストが上がった)世界じゅうから新しい技術を収集し、顧客との連携を強めた。

当然ながら、最新技術から何年も後れをとったメーカーは後退し、技術的に進んでいるメー力ーは発展する。近年は後れをとっていた総合鉄鋼メーカーも外国のライバル社との差を縮めつつある(鉄鋼一トッを生産するのに要する労働時間は六・四時間で、日本の六・〇時間よりわずかに多いだけだ)。基本的な作業の生産性は日本のレベルにほぼ迫いついた(ただし、世界じゅうの鉄鋼メーカーを生産性の高い順に並べると、アメリカのメーカーは五位までにはいれない)と言えそうだが、鋼管や中厚板や薄板などの技術では、まだまだ日本、韓国、ドイツの最高水準には及ばない。

たとえば、ブリキの品質は連続鋳造、連続焼鈍(焼きなまし)、脱ガス、コンピューター制御などの技術を使って向上させることができる。一九八〇年代後半、日本の鉄鋼メー力ーはほとんど例外なくこうした技術を取り入れていたが、アメリカではこれらの技術をすべて導入していたメーカーはなかった。だが、過去よりももっと重大な問題がある。アメリカの総合鉄鋼メーカーが次世代の技術革新の波に乗れるかどうかだ。過去に技術革新の波に乗りそこなう原因となった問題点は改善されたのだろうか。

過去の失敗の多くは、組織の圧力が関係しているように思われる。平炉法が主流だったころ、鉄鋼メーカーの経営陣は平炉に多大な資金と技術をつぎこんだ。平炉を建造する業者からも、新しく開発された塩基性転炉(BOF)を導入しないよう鉄鋼メーカーに圧力がかかった。新型の転炉を設計する技術のないエンジニアリングの方面からも、BOF導入に反対の声が上がった。

耐火レンガのメーカーは、BOFを建造するのに必要な特殊な耐火レンガは作れない(あるいは作る気がない)と言って技術革新に抵抗した。いったんBOFが普及すると、こんどは作業の流れが速くなって、冶金品質テストの結果を悠長に待っている時間がなくなった。解決策は、コンピューター制御しかない。しかし、アメリカの鉄鋼メーカー幹部はコンピューター制御の導入にも難色を示した。BOFの中の極限状態に耐えられる検出装置の開発が難しい、あるいはソフトウェアの開発が難しい、という理由である。その結果、一九八〇年になってもアメリカのBOFには内部の状態をコントロールする満足なフィードバックシステムがなかった。