国会演説で避けた戦後日本の評価

先に訪れた右京区の農家では、トマトの苗を植える際も、勧められた手袋を断った。西京極球場で、いささかユーモラスな野球姿を披露しただけでなく、その心配りは細部にわたった。常に微笑を浮かべ、人々が親しみを持てるような態度で振る舞う。その徹底ぶりは、選挙区で一票のために愛想を振りまく日本の政治家とはまた異なる、凄味さえ感じさせるものだった。温は胡耀邦趙紫陽江沢民という中国三代のトップ、党総書記の下で、民間企業で言えば社長室長にあたる中央弁公庁のトップを務めた。企業でも、社長が代われば社長室長は交代するのが普通だ。ましてや権力闘争の激しい中国で、温が仕えた前二代の総書記は民主化運動への対応の不手際を問われ、失脚した。しかし温は一度も下野することなく、共和国総理に上り詰めた。その秘密を垣間見た思いがした。


温の態度は東京でも同じだった。「今日、国会で演説をした後、私はすぐママに電話して私の話は、どうだったと聞いた」。四月十二日、日本と中国で同時にテレビ中継された国会演説の後、温は夜の日中友好七団体が主催した歓迎パーティーで「ママ」とのやり取りを披露した。六十四歳になる、十三億の大国の宰相が「母」という言葉を使わず、子供がしゃべるように「ママ」とくり返す姿に私は驚くほかなかった。中国の指導者は過去において、尊大で近寄りがたいという印象を与えて令ただけに、参加者から大きなどよめきと拍手が起きた。「九十になる母は「我が子よ、お前はよい話をしたね。小さい頃から人には本当の話をしなくてはいけないと教えてきたが、今日、お前は真心を込めて本当の話をした」と言ってくれた」。温は照れることなく、母親とのほほえましい交流を紹介した。


同席した安倍も、「(国会演説は)議員から何回も拍手が起きた。私が国会で演説して心拍手するのは与党の議員だけ。温首相が大変うらやましい」と軽口をたたいて座を和ませた。しかし私は、温が首相としての外遊で、以前にも自分の母に触れたときのことを思い出さずにはいられなかった。二〇〇三年十二月、温はアメリカ訪問で、ハーバード大学を訪れ、学生たちに講演をした。そこで彼は、東京で披露した、ほほえましい母とのひとときとは全く異なるエピソードを紹介しているのである。「私が生まれたのは中国の抗日戦争の時期である。幼い頃、侵略者の刃の前で、私は母の懐にしがみついていた。そのときのことは今になっても忘れられない」。こうした原体験を持つ温が東京で話したのは、本当に率直な胸のうちのことであったのだろうか。


「氷溶かす笑顔」。京都の地元紙が報じた通り、名前そのままの温和な表情は、確かに人々の対中感情を好転させる役割を果たした。しかし来日中の温の言動を仔細に吟味すると、それとは全く別の横顔も浮かんでくる。「日本の指導者が何回も侵略を公に認め、深い反省とおわびを表明したことを積極的に評価する」。「中国の改革・開放と近代化建設に日本の支持と支援をいただいたことを、中国人民はいつまでも忘れない」。四月十二日の国会演説で温が口にした言葉は、いつもは中国に厳しい論調で知られる読売新聞でさえ、「中国の対日姿勢に変化が見えた」「対中ODA(政府開発援助)に率直に謝意が示されたのは異例」(四月十三日付社説)と大歓迎した。


しかし、二〇〇〇年十月に来日した朱鎔基首相も、アジアヘら侵略と植民地支配におわびを表明した村山富市首相の談話(一九九五年)を「高く評価する」と述べ、それを文書による謝罪と受け取っていることを示唆している。一九九八年十一月に来日し、行く先々で「日本軍国主義の罪業」を言い立てて人々の反感を買った江沢民国家主席でさえ、対中ODAを「高く評価する」と表明している。もっとも、決して「感謝する」とは言わなかったが。温が日本と中国で同時にテレビ中継された国会演説で、表現をかみ砕いて日本の「おわび」を評価した意義を低めるつもりはない。中国では、日本は過去の過ちを認め謝罪したことがないと思い込んでいる人も多く、マスコミにもしばしばそうした記述が登場する。中国の首相がテレビで公然と日本の謝罪を評価したことで、今後、マスコミでもこうした論調は影を潜めるだろう。