明確な意思表示の必要性

先にも触れたように、日本人は「和」の精神を重んじるといわれていますが、日本の民事裁判実務に身を置くかぎり、そんなことは全くありません。みなさん、とても元気に「ノー、ノー」と言います。これは民事紛争で裁判にまでなっているわけですから、当然といえば当然のことではあります。

それに比べると刑事裁判の方は少し様子が違っていて、あまり争うということをしません。むしろ、裁判というには値しない儀式のようです。

 それはさておき、民事裁判で困るのは、無責任に「ノー」と言われると、どうしようもなくなってしまうことです。例えば、医療ミスが起きて病院が責任を問われれば病院は「ノー」と言い、警察で不祥事が起きれば警察も「不適正なところはない」、つまり責任については「ノー」と言います。

これらはほんの一例にすぎませんが、見渡すかぎり、みな「ノー」と言います。そして問題は、その後のフォローがうまくいきにくいということです。

たまに、「ノー」と強く言っていたのに、後でひっくり返された関西の某知事などのケースもありますが、あの某知事が、今考えてみるとやや無謀なくらいの反応をしていたのも、恐らくは「自分もうまくやれるに違いない」と計算したからではないかと推測します。

「うまくいく」という計算もなしに、「失敗するだろう」と考えて「ノー」と言うわけはありません。では、どうして計算違いが起きたのでしょうか。

いろいろと理由は考えられますが、珍しく検察が動いたことが某知事にとって予想外のことだったのでしょう。あの場合、民事と刑事の両方で争われていたのですが、検察・警察が本気で動けば捜査も進みますから、刑事裁判における証拠の集め方も、一般庶民がやるのとはまったく違ってきます。